久しぶりにブログを書きます。(笑)
Newsweek日本語版を読んでいたら、面白い記事がありましたので紹介します。
『ドイツ哲学界のスター:ビョンチョル・ハンの「疲労社会」を考える
2021年9月29日 15:00
Facebook』
さて、
「成果主義」「達成主義」「自己実現」「自己責任」等、現代では、こう言った概念で成功を収めて行く事を是とする風潮がありますね。「新自由主義」と言われているようです。格好良い響きもありますね。
ただ、この記事では、「疲労社会」「鬱病等の病」「過労死」等の原因では無いかと警鐘されています。
わたしは、NECに勤めていた際に丁度管理職になる位の時に正に「報酬」が「成果主義」になりましたので良く分かります。
目標と成果を具体的に列記し、数値目標として「点数」や「実際の利益、予算」「具体的な成功事項(プロジェクト)や表彰、資格」等に紐付けて「給料」の査定の基準(実際には、年功等を基準にした給与の一部として扱われる)にして行くものです。
まあ、全て厳しいですが、予算、お金に関しては辛辣ですよね。個人目標が組織の目標に関わるので落とせません。(詳細はまたそのうち書くかもしれません)
目標未達は、上司に怒られるは、給料下げられるはで散々です。景気が良くて成長が順調であれは、全て良し。評価が良いと「達成感」があるし気分も良いし、上司も部下も喜ぶし、「給料」も「少し」ずつ(涙)上がります。
しかし、不況になったり、強力なコンペチタ(敵)が現れると散々な目に遭います。
私は、NECで現在のインターネット(光ブロードバンド通信インフラ)や電話の開発をしていた為、親方日の丸的NTT等国内キャリア(手堅い商売)から、次第に海外の新興ベンチャー(シスコシステムズやフォアシステム等)との熾烈な戦いに明け暮れて行きました。
北米シリコンバレー等は、若いベンチャー企業家、エンジニア(米国人、中国人、インド人等)がひしめき合っており、常識がひっくり返る位の技術革新の中に居ました。
(面白いので詳細はそのうち別途書こうかな)
まあ、そんな中での「成果主義」「達成主義」の仕事は精神的にも肉体的にも非常に疲れます。相手は、技術的に凄いと思っても気がついたら消えている(吸収されているか)企業もありますし、エンジニアも潰れたら他の会社に転職する人々です。おまけにやたらとアグレッシブで楽しそうでした。(そうでないとやって行けないのかもしれないけれど)
「成果」は、急速に悪化し、昼夜問わず働いて体は、「不眠症」から「鬱病」になった事もあります。実際やってみると良く分かると思いますが、日本の会社員の制度でエンジニアとして働いて「英語」(まあグローバルな)交えて、どれだけ戦えるかと言うと非常に厳しいと言えます。(出来ている人は凄いって事です)
本題からそれましたが、「成果主義」「達成主義」の仕事と言うのは、戦いの相手(コンペチタ)が強力(柔軟かな)且つ、変化が激しい分野では、日本に居て仕事するにせよ、身体的、精神的リスクが非常に多いと言う経験があります。
話は、少し変わりますが、仕事をしながら
ですが、「自己啓発セミナー」に通った事が有ります。プログラム自体は、米国由来のもので所謂「自己実現」をする為の「体験的セミナー」です。やる事は単純で「会員」を増やす事なのです(ネズミ講みたいなものにまあ、なるのですが)。
「なりたい自分になる」「自分の中のダイヤモンドを見つける」為の
目標を掲げ、実際には増やす会員の数を全員の前で宣言して、経過報告もする。「○人」。達成すると祝福される訳ですが、セミナー自体非常に金額が高いのでなかなか達成出来ません。(私も達成出来てません。)不思議ですが、多くのメンバー達は、このプログラムにより所謂「洗脳」状態になり、引っ込み思案の人でも人前でも大胆に行動出来る様になります(人により程度の差ありですが)。
まあ、このセミナーては目標達成の為の体験型のノウハウを学ぶのですが、一時期こう言った「自己啓発セミナー」が流行って「自己実現」に勤しんだ人もいるのでは無いでしょうか(詳細は、別途また書こうかな)。
因みに、私は、残念ながら「洗脳」されかったので(笑)最後は少し違和感がありました。セミナーの効果は分かりませんが、行動的になった人は、単純に団体の中での「集団同調圧力」で有ったのかも知れません。
話は、少しずれましたか、
所謂「新自由主義」社会の中で重視される「成果主義」「達成主義」的な価値観、それらを成果に導く為の「自己実現」や「自己責任」的思想や経験が、私の人生の中、特に1990年位から形成されていき、きっと他の多くの人々も徐々にこう言った流れの中に巻き込まれて行き、この記事の様に世界中に広がりつつある様に思えます。
この記事では、前述した様にそれが「疲労社会」の要因では無いかとの指摘です。
詳しくは、以下の記事または、Newsweek日本語版を参照して頂くとして、心に残った文章をピックアップして置きます。
①「ハッスルカルチャー」と呼ばれるライフスタイルは、過剰に働くことが、他人から尊敬され、自分自身を成長させる最善の方法だと教える。もし1日のうちで、可能な限り生産的なことに時間を費やしていないなら、成功するための条件を失うことになる。
② ハッスルカルチャーを、新自由主義が植え付けた「達成主義」にもとづく心理的統制であると指摘し続けている。
③ 「透明性」を強力に推進する社会とハイパー消費主義、過剰な情報処理や過労にさえポジティブに取り組む人々の蔓延が、社会を疲弊させる要因であると指摘した。
④ 新自由主義を批判する際に「達成主義」と呼ぶ政治経済論理を解説する。達成主義は、持続的に私たちを先へと進ませる。いったん何かを達成すると、さらに次の達成をめざし、自分より先に進みたくなる。しかし、当然のことながら、自分よりも先に進むことは不可能なのだ。
⑤ この不条理な論理は、最終的には破綻を招くことになる。達成の主体は、自分が自由であると信じているが、実際には自身によさる奴隷化なのだ。支配者がいなくても自発的に自分を搾取する限り、それは自由の奴隷なのだ。
⑥ ハン氏は、チェコ出身の作家フランツ・カフカを引用し、自分が主人だと思っている「奴隷の自由」というパラドックスを明確に表現した。動物は主人から鞭を奪い、主人になるために自分自身に鞭を打つ。この永続的な自虐行為が、私たちを疲れさせ、最終的には鬱にさせる。ある意味で、新自由主義は自虐史観に基づ居ている。
⑦ 私たちは、社会的な接触、ハグ、身体的な接触がないために疲れてしまう。隔離された状態では、リアルな他者との会合や対話こそが「癒し」なのかもしれないと気付き始める。
⑧ 「文化はコミュニティを生み出すものである。それがなければ、私たちはただ生き延びるためだけの動物のようになってしまう。
以上、ざっくり切り取るとこんな感じで、特にコロナ禍でもあり、現在の社会に対する「アンチテーゼ」的な論調になっているとも思えます。
なお、
かつてドイツの社会心理・哲学者エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』(1941年)を著した。フロムは、20世紀初頭、資本主義と自由を謳歌した人々が、責任がともなう「自由」から逃げはじめ、連帯や従属感という安定を求めナチズムという全体主義に服従していったと指摘した。
と言う過去の歴史についても考えさせられるものがありました。
「自由って大事だけど責任が伴うし、やり過ぎると疲れるんだよね〜」と言う感じです。
(まとめ過ぎ)でも全体主義は嫌だしね。
西洋的な自由、人権重視、差別の無い世界、貧困無い世界、ジェンダー平等、法の支配などと、唱えられるこの世の中ですが、
幸せな生き方、疲弊しない生き方の為に今、「足りない何かがある」気がしています。
それは、救済かも知れない。って「宗教」かな。
とりあえず、続く。かも知れない。おしまい。
では、以下記事全文てす。
<今、世界の注目を集める韓国生まれのドイツの哲学者、ビョンチョル・ハン(Byung-Chul Han)は、『疲労社会』の中で、ハッスルカルチャーを、新自由主義が植え付けた「達成主義」にもとづく心理的統制であると指摘し続けている>
ハッスルカルチャーの弊害
日本ではたびたび「過労死」が問題となってきた。欧州のテレビ局では、日本の過労死問題の特集番組が何度も放送されている。ベルリンで日本の過労死を扱った独仏共同制作のTVドキュメンタリーを観た時、これは日本だけの出来事ではなかった。仕事を最優先し、全力で仕事に取り組むというトレンドは、今や世界中に浸透している。
「ハッスルカルチャー」と呼ばれるライフスタイルは、過剰に働くことが、他人から尊敬され、自分自身を成長させる最善の方法だと教える。もし1日のうちで、可能な限り生産的なことに時間を費やしていないなら、成功するための条件を失うことになる。ハッスル(Hustle)とは、英語で「ゴリ押し」や「強引な金儲け」などを意味し、日本での「頑張り」や「張り切る」といった意味とはかなり異なっている。
ハッスルカルチャーの強迫観念については、すでに多くの医療関係者や研究者などが指摘しているように、努力は必要だが、自分の時間がなくなるまで仕事をするのは危険である。常にハッスルしていると燃え尽き症候群になる可能性があり、健康に悪影響を及ぼすからだ。
過労とメンタルヘルス
過労とメンタルヘルスの直接的な関連性はまだ確立されていない。しかし、過労は生体リズムの乱れにつながり、睡眠不足、うつ病、II型糖尿病、肥満、高血圧、脳心血管系合併症の発症などに影響を及ぼす可能性がある。最近、日本でも報告されているように、自殺のリスクも排除すべきではない。
燃え尽き症候群は確かな病気だ。世界保健機関(WHO)は、燃え尽き症候群を「職場での慢性的なストレスがうまく管理されていないために生じる症候群」と定義している。
ビョンチョル・ハンがナレーションを担当し、出演したエッセイ・ドキュメンタリー映画。ハンは現代の現象である「燃え尽き症候群」について語り、達成志向のデジタル社会の根底にあるテーマを明らかにしている。イザベラ・グレッサー監督作品(2015年)
哲学者ビョンチョル・ハンの観点
今、世界の注目を集める韓国生まれのドイツの哲学者、ビョンチョル・ハン(Byung-Chul Han)は、20カ国以上で翻訳出版されている主著『疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)』(2010)や一連の著作の中で、ハッスルカルチャーを、新自由主義が植え付けた「達成主義」にもとづく心理的統制であると指摘し続けている。2021年10月には、日本でもハン氏の主著である『疲労社会」と『透明社会』が相次いで翻訳出版されるという。ハン哲学の日本での受容に期待したい。
ビョンチョル・ハンの主著『疲労社会』の英語版『The Burnout Society(燃え尽きる社会)』の表紙。スタンフォード大学出版から2015年に出版された
1959年にソウルで生まれたハン氏は、ドイツで哲学、文学、神学を学び、現在はベルリン芸術大学(UdK)で哲学と文化理論を教えている。ドイツのみならず世界が注目することとなった彼の言説は、「透明性」を強力に推進する社会とハイパー消費主義、過剰な情報処理や過労にさえポジティブに取り組む人々の蔓延が、社会を疲弊させる要因であると指摘した。彼の著作や論考を参照しながらハン氏の思考を紹介してみよう。
自由が生み出す「強制」
うつ病や燃え尽き症候群のような心理的障害は、自由に対する深い危機の症状だとハン氏は指摘する。
かつてドイツの社会心理・哲学者エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』(1941年)を著した。フロムは、20世紀初頭、資本主義と自由を謳歌した人々が、
★責任がともなう「自由」から逃げはじめ、連帯や従属感という安定を求めナチズムという全体主義に服従していったと指摘した。★
フロムの分析とは異なり、現代の自由は、しばしば自主的な「強制」に変わる病的なシグナルであるとハン氏は考える。
★私たちは皆、生活を営むことは自由だと思っている。しかし、実際には自他のために自由を貫くことは、倒れるまで情熱的に自分を搾取していくことに転移する。その過程で、自由な個人は率先して自らを不自由に追い込んでいく。私たちは自分自身を実現し、死に至るまで自分を最適化することに明け暮れるのだ。★
ハン氏は、新自由主義を批判する際に「達成主義」と呼ぶ政治経済論理を解説する。達成主義は、持続的に私たちを先へと進ませる。いったん何かを達成すると、さらに次の達成をめざし、自分より先に進みたくなる。しかし、当然のことながら、自分よりも先に進むことは不可能なのだ。
この不条理な論理は、最終的には破綻を招くことになる。達成の主体は、自分が自由であると信じているが、実際には自身による奴隷化なのだ。支配者がいなくても自発的に自分を搾取する限り、それは自由の奴隷なのだ。
新自由主義という心理的搾取
ハン氏は、チェコ出身の作家フランツ・カフカを引用し、自分が主人だと思っている「奴隷の自由」というパラドックスを明確に表現した。動物は主人から鞭を奪い、主人になるために自分自身に鞭を打つ。この永続的な自虐行為が、私たちを疲れさせ、最終的には鬱にさせる。ある意味で、新自由主義は自虐史観に基づいているとハン氏は指摘する。
新自由主義がめざす達成社会は、規律や支配、そして懲罰がなくても搾取を可能にする。フランスの哲学者ミシェル・フーコーが『規律と罰』(1975年)の中で分析したような、懲戒や禁止事項にもとづく身体的な規律社会では、今日の達成社会を説明できない。ハン氏は、フーコーが分析した規律社会や監視社会の力学を超えて、自主的に人々がめざす達成社会こそ、権力が私たちの身体を梗塞させる以上に、心理的な自由を搾取する。ハン氏は、露骨な制限や監視に頼るより、自由こそが望ましい支配のメカニズムであると主張する。
自ら率先してソーシャルメディアに自身や友人関係のデータ・プライバシーを提供し続け、自身をテック巨人のマネタイズのための奴隷にしてしまう自己搾取こそ、他者による支配や搾取よりも効率的である。
「燃え尽き症候群」は主に欧米や日本、韓国などの新自由主義社会に広がった。しかし、ソーシャルメディアを通じて、新自由主義的な生活形態は今や第三世界にも広がっている。ソーシャルメディアが誘導するネット・エゴイズムやナルシシズムの台頭は世界的な現象である。
ソーシャメディアとZOOM疲れ
ソーシャルメディアは、私たちを、自分自身でビジネスをする生産者、起業家への幻想に導く。同時に、リアルなコミュニティを破壊し、本来の社交空間や公共空間を無用のものに変え、自我の自由と達成主義をグローバル化する。ソーシャルメディアは、自分自身を生産し、自分自身を持続的に表現し、展開していくためツールなのだ。SNSでの自己生産、つまり自我の継続的な「展示」こそ、私たちを疲れさせ、憂鬱にさせるとハン氏は指摘する。
パンデミックの間、自由にもとづく仕事の環境は、ホームオフィスという新しいステージを得た。ZOOMでつながったホームオフィスでの仕事は、オフィスでの仕事よりも疲れるとハン氏は次のように述べる。
「私たちは自分自身と向き合い、常に自分自身について考え、推測しなければならない。根本的な疲れは、究極的には自我の疲れに至る。ホームオフィスは、私たちをより深く自分自身に集中させ、疲労を強めていく。問題なのは、自分のエゴから気をそらすことができる他者がいないことなのだ」
対話のベンチ
ベルリンで人気の公園「パーク・アム・グライスドライエック」では、パンデミックの間に市民の「対話」や「おしゃべり」が極端に少なくなったことを憂慮し、参加型アクションの一環として、公園利用者の会話を促進する「対話のベンチ」を設置した。これにより、さまざまな市民との交流が可能な、敷居の低い空間が生まれた。「対話のベンチ」のプレートには、「会話に入りませんか?おしゃべりしましょう!」と明記されている。
ベルリンの人気の公園「パーク・アム・グライスドライエック(Park am Gleisdreieck)」に設置された「対話のベンチ」。©Park am Gleisdreieck
私たちは、社会的な接触、ハグ、身体的な接触がないために疲れてしまう。隔離された状態では、リアルな他者との会合や対話こそが「癒し」なのかもしれないと気付き始める。ウイルスは、他者の消滅を加速させているのだ。
社会的距離を置くことは、これまで当たり前だった社会生活を解体することになる。それは私たちを疲れさせ、他の人々は、物理的な距離を保ち続けるウイルスの潜在的な保有者とみなされる。現在ベルリンでは、レストランやカフェに入るときに、ワクチン接種証明アプリか48時間以内のPCR検査の陰性証明書の提示が必要となっている。事実上、ワクチン・パスポートを所持していない人は、ワクチンを打たない自由と引き換えに、現実空間での自由を極端に制限されることになる。
リアルなコミュニティ文化の再生
ウイルスは、私たちの現在の危機を増幅させ、すでに危機に瀕していた現実のコミュニティを破壊している。ウイルスは、私たちを互いに疎外させる。かつてのリアルな社交文化は、ロックダウン中に真っ先に切り捨てられた。ベルリンのクラブ、コンサート、演劇、パフォーマンス、映画館、美術館ですら、ロックダウンの犠牲となった。
ハン氏は最近、独立ジャーナリズムとして知られるThe Nationに『疲労のウィルス』という記事を寄稿し、Covid-19が、私たちを集団的な疲労状態に追い込んでいると主張した。その中で、文化とは何かを再考し次のように延べている。
「文化はコミュニティを生み出すものである。それがなければ、私たちはただ生き延びるためだけの動物のようになってしまう。この危機から一刻も早く回復する必要があるのは、経済ではなく、何よりも文化、つまりコミュニテイにもとづく生活なのだ」
(出典 Newsweek日本語版)
中山章彦公式
元通信エンジニア(NEC) 日本文明に高いプライドを持つ YouTuber、趣味で本を書く 国立大分工業高等学校電気工学科卒 政治、近代史に興味を持つ 読書家 アニメ好き Apple好き 最新のテクノロジーにこだわる。
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